ミッシェル・バテュ

インタビュー(2006年)

ミッシェル・バテュ画伯が画家になろうと思った動機と、そのいきさつを教えてください。

私は幼い頃喜劇に魅了されていましたが、10歳の頃から思い浮かぶまま色々なものを描くことが好きになり、いつしか描くことは私にとって不可欠なものとなっていました。 両親がぐっすり眠りにつく真夜中によく絵を描いていたのですが、たった一人の秘密の時間は、私にとって大切なひと時でした。 高校生のときから本格的に学び始め、1964年パリ特別技術学校に入学し、油絵を描き始めたのですが、最初はとても難しく、なかなか思うようにいかなかったことを覚えています。 一作品を仕上げるのに一ヶ月以上も要していました。 けれど、少しずつ慣れてくることによって、油絵はいかなることも表現できるということがわかり、次第に没頭してきたのです。 今ではもう、油絵から離れることは出来ません。 在学中にはギリシャやアメリカ、カナダを旅しながらスケッチをとったり、フランス国外の展覧会にも出品を始めました。 1967年にオーストラリアで初めての個展を開きました。 全身全霊を作品に傾け、そしてその作品を発表することの本当に大きな喜びを実感し、自分にはアーティストとして生きるしか無いと決意しました。 油絵は私にとってもっとも重要な手段であり、大作を仕上げた後でも15日間以上絵筆を休めることが出来ないのです。

ご両親はどのような方だったのでしょうか?

父は建築家としてたくさんの仕事を成し遂げた人です。父の時代は戦争が終わり、復興の時代でしたからフランス各地に残った戦いの傷跡を修復するのに力を尽くしていました。 仕事で国内や国外、各地を訪ねることが多かった父は、私を一緒に連れて行ってくれました。 今から思うと両親は私の見聞を広めるための教育として、色々なところへ連れて行ってくれたのだと思います。 旅はとても楽しい思い出になりましたし、色々な文化に触れ芸術的な感性にも役立ったのはとても感謝しています。 父の設計用のスケッチブックを与えてもらい、心ゆくまで好きなように描けたのは幸運でした。母は若い頃モデルをしていました。 文学的な趣味が豊かな人で、家でゆっくりと小説を読んで過ごすのが好きな母でした。マルセル・プルーストを好んでいました。

1971年に受賞したカーサ・ベラスケス賞について教えてください。

カーサ・ベラスケスは、パリからいただいた賞です。この受賞によりベラスケスの故郷スペインのマドリッドに1年間奨学生として留学しました。 情熱的で洗練されたスペインの文化に直接触れることができ、私の政策活動の中でも大きな成果を果たすことア出来ました。

ミッシェル・バテュ画伯に影響を与えた画家はいますか?

ブラマンク、ベルナール・ビュッフェ、シャルダン、マグリット、ベラスケス、ゴヤ、そして勿論その他のシュールレアリズムの画家達です。 あげたらキリが無いですね。すばらしい偉大なアーティストへの感動や尊敬、学びは尽きることがありません。

先生はモチーフを求め、世界各国を旅していますが、印象的な場所はどこでしょうか?

インドのバラナシ(北部の宗教都市。ヒンズー経の聖地)、特にこの地の色彩、人々、彼らが身に着けている織物、ガンジス川等です。 初めてインドを訪れた時は衝撃を受けました。ファテプールでも、その風景に非常に大きな衝撃を受けました。 パノラマの風景が楽しめますし、テクニカラーの映画のような所だからです。 それに此処では何もかもが巨大で、スケールの大きさや目標を与えてくれました。 あらゆる植物、緑、そして形状に触れることのできるペルーとエクアドルのアマゾンの森林にも影響を受けましたし、 グアテマラの豊かな森、植物と動物の;豊かな生活、そしてアフリカの暑さ、空、逆光、匂い,動物等にも影響を受けました。 そして日本です。日本の洗練されたところ、節度、清潔さ、人々の好み、礼儀正しさにも惹かれますし、非常に良いもてなしをしてくださいます。 私が日本に最初に訪れたのは父の仕事の関係で同行した10代の頃でした。 その時から日本は私の第二の祖国です。日本の伝統文化も大変洗練されており、本当にすばらしいと思います。 京都の嵯峨野を訪れた時に受けた衝撃的な感動は今でも忘れられません。 今でも思い出しては瞑想にふけ、心が穏やかになるのを感じます。 皆から愛され、大切にされている日本の自然には感動を覚えずにはいられません。 どのように木々は手入れされ、庭は整備され、花々は保護されているのかを視察する事は繊細な日本文化に触れる喜びでもあります。 自然に敬意を払う事、食事を大切にすること、自分達の身の振り方に気をつけること・・・など、きっと日本人はすべてを理解しているのでしょう。 日本は、きちんと教育のなっていない国々の見本であると思います。

先生の休日はどのように過ごされているのでしょうか?

週末にはたいていバシュレスに足を運び、木々の手入れをして時間を過ごしています。 のこぎりを片手に木々に這ったツタをとったり、栄養を行き渡らせる為に余分な枝を切り取ったり、自然の中に一人身を置いて過ごす時間は私にとってかけがえのものです。 特に幾年も前から大切にしているくるみの木の手入れには余念がありません。 野生のリスたちは、地中にくるみを隠して保存する習性があるのですが、どうやら全ての隠し場所を覚えているわけではないようなのです。 忘れられたくるみはいつの日にか立派な樹木に成長し、私は春になると顔を出したばかりの赤ちゃんくるみの木を集め、適当な場所に植え直すのです。 このようにして私の山には、今日300以上ものくるみの木々が生い茂り、中には20メートルにも及ぶものもあります。 その木々達は私がどれだけ愛しているのかを知っており、森の中を散歩する度に私は誇りでいっぱいに包まれるのです。

もしも画家になっていなかったら何の仕事をしていたと思いますか?

幼い頃から喜劇が好きで、10代の頃劇団で演じていたこともありましたから、女優や装飾化、父の影響を受けて建築家になっていたかもしれません。また、何かを発見したり探したりするのが好きなので骨董屋さんなどもいいかもしれません。

今後挑戦したい作風は?

新しい題材は常に頭の中にあります。最近の旅行から得たアルゼンチンの美しい浜辺や氷河といった題材を今後取り上げてみようと考えています。 いつ、どんな時も自然に題材になる風景を目で追っています。 写真を撮る時には必ず絵として成り立つ構成で撮ります。いつでもカメラを片手で異なったテーマを探しています。 旅行から得る多くの発見は、文化の違いを感じ、受け入れる事によって人生を豊かにしてくれます。 絵を描くことは私にとって常に生きる源です。 たとえ、20年間牢屋に閉じ込められたとしても、筆とキャンバスさえ与えられるなら、絶対に退屈することは無いと思います。 その中にあっても永遠に絵を描き続けることでしょう。描く事は私の心からの情熱。もし絵を描けないのなら、きっとすぐに死んでしまうでしょう。